俺は社会人になって仕事しかやってこなかった。だから趣味がない。学生時代はバンドをやったり洋服が好きだったが、仕事の忙しさと楽しさにかまけて、音楽のほうはおざなりになってしまった。これが俺の失敗だ。人間、生み出せないと人生がすげー退屈になるんだ。生きがいは、仕事以外に見つけないと休日がやばいくらい退屈になる。
「生み出す」タイプの趣味がない人は精神的に行き詰まる
最近、休日にやることがない。求められていないのに、仕事の準備をしている始末だ。
これまでは忙しすぎて休日に喫茶店で仕事を進めておかないとやばい状況だったので、それが習慣化しているせいもあるが、休日に仕事以外のことをしないことも習慣化されてしまった。いま、ある程度休日に余裕がある状況になって、とてもまずいことだと気づいた。
音楽を作るとか、イラストを描くとか、文章や俳句を書くとか……続けていればコミュニティに所属できていたであろうことが、忙殺されてできなかったのだ。いま、俺は家族と数人の友人関係しかない。それもグループではなく1対1だ。
いや、時間は作るものだから、いくら忙しくても時間を作ってクリエイティブに勤しむべきだったのだ。それは、まさしく後悔だ。仕事を放り出してでも、好きなことを続けるべきだった。
俺の場合、仕事がそれなりに楽しくて趣味性も発揮できる領域だったのが、またまずかった。自分らしい仕事をしていると信じて時間を注いでいたが、所詮それは自分で生み出した仕事ではなく、会社が作り出した仕事で会社のためにしかならなかった。
おかげで仕事の面ではそれなりに評価はされてきたが、今では仕事はダメダメでもプライベートで音楽とか劇団とかやっているやつのほうが、人間らしく文化的に生きていると心から思っている。彼らが、正しかったのだ。
そんななか俺は、洋服が好きだから高い服を買って息抜きをしていたが、そこには誰も介在しないし、何も生み出していない。消費専門家だ。買ったら、着たり眺めたりして終わり。その過程には選択の楽しさや、お金を稼ぐ労苦があったとしても達成感などは、まったくない。
お金がなくても、創造が習慣化している人間のほうが心は豊かだ。それは断言できる。青春を終えて、余生をどう生きるか、そのときに寄り添ってくれるのはお金ではなく創造だ。マジで実感している。自分の空虚さを。
自分の心の声に耳を傾け続けること
しかし、何もやりたいことがない。そんな人もいる。そんな人は、とりあえず何かをやってみるといい。草野球をしたり、絵を描いたり、へたくそでもいいから、手当たり次第にやってみるのだ。すると、いつか気持ちよさにぶち当たる。そのとき、心がそれを求めている声を聞くのだ。
俺の場合、音楽を聞くのが好きだった。これも、周りで流行っている音楽を聞くことから始まったんだけど「もっとなにかないのかな」という気持ちで興味が湧いて深くなっていった。そして、バンドサウンドが好きなことに気づいた。
もちろん、高校生くらいになるとみんなバンドとかをやりだす。それを横目に、家にある親のギターに触れることになる。理論や何もかもがわからずだが、なんとかものにならないか、ちょくちょく触る。
ある日、ギターを弾ける友人の家をたまたま訪れる。ここで、関心がより身近なものになる。まぁ、めぐり合わせだ。これがスポーツなんてこともある。
できなかったことができるようになる楽しさは、どんな領域にもある。そして、それを誰かに見たり聞いてもらったりしたとき、やっと自覚が生まれる。「自分はギターを弾く人間なんだ」と。趣味とのめぐり合わせは、こんなもんだ。
いまだと、ネットでコミュニティがいっぱいある。そこで友人を見つけることもできる。だからこそ、これだけ趣味が多様化しているんだろう。とてもよいことだ。
いつの間にか心の声が聞こえない場所にきてしまった
そういうわけで、俺はある時期まで音楽が趣味だと言えた。しかし、社会人になってそれをやめてしまったのだ。いや、いつでも再開することができると信じているが、うまくいかず困っているのが現在だ。
何をやっても楽しくない、そんな状態が一番やばい。なんとかアコギをたまに弾いて、喜びをシミュレーションしているが、人前に立って披露していた時期、あのモチベーションと比べると雲泥の差だ。退屈だ。
陶芸に没頭するとか、ひとりでもそのモチベーションを維持できる人間もいる。そういう人間に、俺もなれるかと思ったが、俺は周囲の人間がいないとだめだった。いまのところは。何かに期待するわけではないが、どこかに光明があると思って生きている。そのためにも、行動あるのみなのだ。
俺と同じ心境のやつがいれば、とにかくアドバイスできるのは、行動あるのみという点だ。静かに暮らすのが夢だったが、そこには生涯の趣味が必要だったことに、今になって気づいたわけだ。割と早く気づけたのかな? そう思うことにしている。