名作と呼ばれる小説は山ほどあるが、多くの人は意外と読んでいないものらしい。英国の「読んでいないのに読んだふりをしている名作」みたいなランキング第1位の本が、今回紹介する『1984年』であると、同書の訳者あとがきにも書かれていた。
みなさんは読んだことありますか? ジョージ・オーウェル最後の作品にして、近代文学の傑作、ディストピアSF小説の金字塔など、やたらと名高い本作。俺もやっと読んだよ。ディストピア系の小説だからショッキングな内容なのは覚悟してたけど、なかなかのもんだった。俺が読んだのは早川epi文庫の新訳版。もちろん、記事を書くくらいだからおすすめなので、まだ読んだことのない方はぜひ興味をもっていただけるとうれしいです。
※少しだけネタバレありますがなるべく読みたくなるよう調整しているつもりです。
『1984年』ってどんな内容の小説?
ぶっちゃけると、俺は『1984年』がどこの国の作家さんの作品で、いつ書かれたもので、どんなあらすじなのか知らない状態で読んだ。作品が有名すぎて、出版社の紹介文すら読まずに購入していた。なのでディストピアとかSFとか、予備知識なしにページを開いたわけだ。
少し読んで、なんだこれ?って思う。
憎悪週間、思考警察……は?
さらにニュースピークとかイングソックとか、意味のわからない単語が出てくる。うーん。
そんな設定のなかでも目を見張ったのは、作品のキーにもなる装置「テレスクリーン」。テレスクリーンは、スクリーンとしてテレビ画面のように映像を放映しつつ、監視カメラとして映像を撮影し監視者に送信する機器。このテレスクリーンが、物語の主人公であるウィンストンが暮らす世界ではいたるところに設置されている。
なかなか設定がディープだ。SFというカテゴリに入るらしいが、宇宙的だったり科学的要素がゴリゴリなわけではないからその手の知識が必要な感じではない。思想的SFというか、政治的SFというか(そんなカテゴリあるんかいな)。
読み進めていくと、作品がいつ書かれたものなのか気になってきた。
『1984年』が刊行されたのは1949年。そんな古い作品だったの? 言われてみればそのせいか、第二次世界大戦前後の世界情勢のムードが漂っている気もする。ってか、今から70年以上前にこんな斬新な設定の作品があったの?と少し驚いた。
刊行したのが1949年ということは、書名の『1984年』は当時から35年先の未来。つまり、未来を想像して書かれた作品ということか。すると、少しだけ作品の輪郭が掴めてくる。というか、この時間感覚を押さえずに読むのは愚かな行為だった。「いつ書かれたか」って、本を読むうえでやっぱり重要だね。すんごい頭悪そうなこと言ってますけど。
ジャーナリストが書いた小説をどう捉えるか
人物のキャラクターも時代背景を踏まえている。物語のなかの政治体制がどのようになっているかを体現する存在として、ビッグ・ブラザーとエマニュエル・ゴールドスタインという象徴的な人物らが登場する。
口ひげの独裁者、ビッグ・ブラザーのモデルはソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の最高指導者だったスターリンで、エマニュエル・ゴールドスタインはそれに対する存在でレーニンの死後にスターリンと政権争いをしたトロツキーがモデルになっているようだ。これは、トマス・ピンチョンによる本書の解説にも書いてあるらしいので、そのように解釈して間違いはないだろう。
……“らしい”と書いたのは、実は俺、ピンチョンの解説を読んでないんだよね。これは読了後に驚いたんだけど、電子書籍版には、ピンチョンのあとがきがついてないんだよ! だから、ほかの人の書評とかからピンチョンの解説の内容を知ったんだけど……。
もしピンチョンの解説を読みたいなら、ぜひ本で、買ってください。電子書籍版にはついてないんだよ。そんなのありかよ。
物語の政治体制のお話に戻ります。ビッグ・ブラザーのモデルであるスターリンがどんな政治を行ってきたかおさらいしてみる。
スターリンの任期は1924年から1953年まで。名前からとったスターリニズム、スターリン主義として、その政治思想と実践は語り継がれている。キーワードを挙げると、指導者に対する個人崇拝、軍事力や工作活動による暴力的な対外政策、秘密警察の支配を背景とした恐怖政治や大規模な粛清などを特徴とする全体主義。といったところだ。説明は ウィキペディアから引用しているが、さすがにこれ以上うまくまとめることは俺にはできないので、許してほしい。
著者のジョージ・オーウェルは『動物農場』という別の作品でも、スターリンとトロツキーをモデルにして風刺を利かせている。では、著者のジョージ・オーウェルとは、どんな人物なんでしょうか。
ジョージ・オーウェルは、ジャーナリストであり作家であった。生没年は1903~1950年。『1984年』が刊行されたのが1949年なので、その翌年に逝去している。
政治思想としては「民主社会主義」を標榜していたようだ。民主社会主義というのは、民主主義のもとで社会主義政策を行うという政治思想であり、社会主義の中で、共産主義・マルクス・レーニン主義(スターリンはスターリズムのことをマルクス・レーニン主義とも呼んでるらしいですけど)へ強く反対する社会民主主義の一種、とのこと。これもウィキペディアを参照しちゃいました。
ってかウィキペディアすごすぎる。政治に関する用語をなかなか覚えられない俺なんだけど、一発検索すればすぐわかるもんな。そんで、ウィキペディアの冒頭の要約のわかりやすさったらなくて、現代ではもっともうまくまとめられた説明なんじゃないか?って、感嘆するほど。俺が不勉強だってことは自分でもよくわかってるんだけど。
失礼しました。と、いうことでオーウェルはジャーナリストとして、自身の考えにもとづく風刺を利かせた小説作品を発表するっていうスタンスの持ち主だと、いったんシンプルに理解させてもらうことにした。『1984年』にも、そのような意図がいくらか込められていることだろう。
ここで『1984年』という作品にケチがついて、読む気が失せたなーと思う人もいるかもしれない。純粋な文学作品ではなく、ある種の政治思想が込められた作品ではないかと。
でも、それは捉え方ひとつだと思う。自分でも平和ボケしてると思うけど、今から70年以上も前の作品に対して、著者の意向を当時を生きた人間ほど強烈に感じることは俺はできないと思う。
もしかすると、日本以外のどこか別の国では当時と近しい情勢になっていて、はっきりとしたメッセージを受け止めてしまう人がいるかもしれない。しかし俺には、そこまでの想像力を働かせることはできない。だから本当に無責任なことを言うが、当時の世相を反映した風刺を、今では冷静に適切な距離をとって、評価することもできるのではないだろうか。そして、史実を踏まえているのであれば、それは物語のリアリティを強化する要素として働く。
オーウェルによる風刺は、当時の人にはパフォーマンスだなどと揶揄されたのかもしれない。何が事実か定まっていないなかだと、妄想を膨らませている異常者だと思われたりもしたかもしれない。しかし何度も史実が検討され評価がされた現在において、オーウェルがおかしなあぶないことを書いていたのであれば、21世紀に日本で新訳本が出るようなことはないのではなかろうか。
だから安心してとは言わないが、現実世界をモチーフにしたSF小説として楽しめばいいと思う。むしろ、それくらいの距離をとって読まないと、没入してショックを受けてしまう描写もあるから。とはいえ、本との向き合い方は人それぞれ。ここでは、俺のスタンスを述べさせてもらいました。
『1984年』っておもしろいの?
有名な作品だからといって、万人受けするおもしろさがあるわけではない。それが70年以上前の作品なら、一般的にいう“おもしろさ”の価値観も変わっているだろう。それでも『1984年」は、俺の意見としては、おもしろかった。大いに読む価値はある。
どこにおもしろさを感じたかだけど、まずは世界観。ディストピア――反理想郷や暗黒世界っぷりって意味らしいね。これが当時の時代背景の延長にありえそうで、現代からも想像できそうだという絶妙な塩梅だと思う。俺のちっぽけな想像力でも実感が湧いてくるほど、なかなか刺激的かつイメージしやすいもので、よかった。
ディストピアものにはつきもの?といってもいいかしら、凄惨な場面の描写はぞっとするものがあった。おもしろさというか……こういうのは作品の迫力に関わってくるけど、個人的にはあまり目にしたくない。ちょっとネタバレになるけど、拷問シーンあります。ある“部屋”があるんだけど、そこの恐ろしさといったら、もう。どれほどの恐ろしさなのか読者に想像させつつ正体を明かさずに引っ張ることで、読み進めさせるスリリングな感覚を味わうことができます。
拷問シーン、俺は苦手。本や映画、漫画などで目にすると、慄然とするというか、ぞっとするというか。もう絶対悪いことしませんから、自分の人生でこんなことが起きることがないように祈ってしまう。死よりも恐ろしい苦痛や屈辱を心身ともに与える拷問っていうのを、人間がフィクションでも考え出してしまうのが恐ろしい。そして、それが実際に過去に行われたことがある、みたいな話を聞くと、もう、駄目。
『1984年』を読むなかでもそんな体験をした。真面目に、長いものに巻かれて、ひっそり誰にも迷惑をかけずに生きようって気持ちにさせられるよね、人間が惨い目にあっていると。そんくらいパワーのある描写があります。
はい、おもしろいと思ったところの話ですね。
ほかに項目立てて挙げられることはないかと考えたけど、やっぱ世界観ってワードに集約されるかな。俺の語彙力とか説明する力の問題かもしれないけど。
世界観を彩る場面の描写、「二分間憎悪」ってのがあるんだけど、ここでぶちまけられる狂気の描き方はすごい。あとは不潔さの表現。読み手の経験をなぞらせるようにしていやな臭いをぷんと感じさせる。このへんは訳者の方の手腕でもあるだろう。
あとは設定の説明の仕方のうまさ。物語に、反体制側のバイブル的な本が登場するんだよね。その本の中身を主人公のウィンストンが読む、すなわちその「バイブル的な本」の中身が、『1984年』という本全体の分量の10%ほどを占めてるんじゃなかろうか。本の中に登場する本の本文がガッツリ載ってるってことね。
で、その「バイブル的な本」が中盤で登場するんだけど、読んでいくと(実際に読者はこの「バイブル的な本」を読む)、『1984年』という作品の世界観がぐっと具体的に感じ取れるようになる。この体験は気持ちよさがあった。設定を知るっていうか、作品の世界の秘密が明かされていく感じ。
ちなみに『1984年』の世界で使われる公用語の「ニュースピーク」についての説明が「付録」としてついてくる。設定資料としてではなく、物語のなかで実際に登場人物たちに頒布されているような説明資料の体裁なんだよね。この「付録」にも、ちょっとした仕掛けがあって、ピンチョンが解説のなかで鋭くてエモい指摘を入れてる。
これらの「反体制側のバイブル」だったり「公用語の説明資料」、つまり物語のなかで流通しているドキュメントの使い方が個人的にツボでした。
おもしろさ、伝えられたかな? あえて、オーウェルの政治的な思想とか風刺とかから離れたところから書いてみたつもりです。もちろん、そういったオーウェルのジャーナリストとしての仕事の側面が評価されて、ここまで有名な作品になったと思うし、そこも汲みながら読むと別の楽しみ方もできるはずです。それこそ、読者が生きている時代によって世界情勢は変わるから、オーウェルのメッセージの響き方も変わってくるはず。そういう意味で、語り継がれるべき作品なのかもしれませんね。
『1984年』が今でも読まれているのはなぜ?
『1984年』の実績を見てみよう。刊行された国は、原書の国であるイギリスも含めると……すまん、わからんけど、相当な数の言語で翻訳されている。
とりあえず、冷戦下の米国でバカ売れしたエピソードなのもあるし、ウィキペディアには「ビッグブラザー」が項目として独立していたりと、この作品がもたらした影響は大きいように思われる。
『1984年』の出版以来、「思想警察」「ビッグ・ブラザー」は、過度に国民を詮索し、管理を強める政府首脳や、監視を強めようとする政府の政策を揶揄する際に使われるようになった。
フィクションが現実に新たな概念をもたらすって、すごいことだと思う。今でも通用するものではないかもしれないが、一種の社会現象と呼べるのではないだろうか。
そして、2020年代に入ってから『1984年』が売れ始めているという話も聞いたことがある。1949年に書かれた作品だよ?
なぜいま?という疑問に対して、いろんな方々が見解を述べている。どれも共感できる部分がある。ここでは、俺個人の、日本に住む一般的なサラリーマンとしての感覚で考えてみたいと思う。
過去に出版されたある本が時代の情勢にマッチして売れるということは、該当の本の内容が現実世界をとらえるヒントとされそれがシンクロ的に発生している、ということなのではないだろうか。
『1984年』は、全体主義思想の世界で展開されるディストピア小説。全体主義とは「個人の自由や社会集団の自律性を認めず、個人の権利や利益を国家全体の利害と一致するように統制を行う思想または政治体制」とある(Wikipedia参照)。
いまの世界はそんな感じか?と問われると実感は湧かない。これも俺が平和ボケしているためか。このへんを深く考察することは俺には無理だ……。
でも先に述べた、国民の動きを始終監視する存在である「テレスクリーン」に関しては思い当たる節がある。単純な発想かもしれないが、インターネット・SNSの登場だ。
『1984年』が与えてくれる情報化社会→監視社会に対する想像力
何を検索したかの履歴や、SNSで誰をフォローし何を発話しているか、いわば、趣味嗜好から思想まで、情報社会のプラットフォーマーが検閲できる状況にあるのではないだろうか。
インターネットを通じて発覚する行動履歴がよほど危険なものであれば、警察が関与して取り締まるようなこともあるだろう。SNS上での誹謗中傷からの裁判沙汰なんてそうじゃないだろうか。インターネット上で発生するトラブルを避けるために有効活用されている面があるのだろう。
しかし、巨大資本や国が、彼らにとって不都合な真実をインターネット上で暴かれるような事態になったら何をするかも想像できる。これは思想の検閲ではないだろうか? ここで『1984年』のテレスクリーンによる監視を想起した。
書きながら思ったけれど『1984年』が描くディストピア社会を構成するものとして「監視社会」ってのはけっこうでかい要素じゃないか? そして、いまそうなりつつある、っていうかもうオーウェルが予期したとおりになっているかもしれない。
くわえて、物語のなかで登場する「二重思考」という思考法。矛盾の受け入れ方というか、ある事柄に対する相反する見方をどちらも信じるというか、真実が捻じ曲げられ、それが世界の常識やルールとなるなかでの処し方のようなもんだろうか、完全に理解をするのは難しいんだけど、現代の高度に情報化した社会生活での複雑な人間関係のなかで思い当たる節がありそうな思考。自己欺瞞ってやつか。個人的にはぐさっと刺さった。匿名で書評書いているような俺の思考にも、どこか当てはまるような気がしないでもない。
もしかするといま、現実世界の状況を把握するうえで『1984年』は有効な本なのではないか。可能性としての全体主義の外堀を埋めているのは、物語でいうと「テレスクリーン」、現実世界ではインターネット・SNSではないか。そんな環境における身の振り方、精神的な自己防衛の手段としての「二重思考」――情報テクノロジーの危険性に対する想像力をがんがんぶち込んでくる本ではないだろうか、そんな捉え方もできる。
と、いうことで今回の記事はここまで……。『1984年』を読んで、現代に置き換えて想像力を働かせると、ちょっと怖い。これ以上、書きながら考えを巡らせるとシリアスになりすぎて、生きづらくなりそうなので。
結論、『1984年』はおすすめです。ちょっと俺には影響力が強い本かもなと思った。ある種、エネルギーに満ちた本なので心に余裕があるときに読んだほうがいいかもしれない。でも、読んどいてよかった。過去から渦巻いている文学の潮流だけでなく、世界の輪郭を知るうえで、有用な一冊だと思います。
書いていて疲れた。本を読みすぎるってのも、考えものかもしれんなぁ……。本にあてられるというか。何事もほどほどに、ですね。