名作だから教養として読んどけっていう小説はたくさんあるけど、そのなかに自分が本当におもしろいと思える作品は多くなかったりする。『失われた地平線』は、鶴見俊輔の『旅と移動』っていう本のなかで「シャングリ・ラ」の語源が同作品にあると書かれていて、へぇ!って思って買った。つまり、教養欲しさに買ったんだよね。いざ読んでみると、これが超一級の冒険小説。おもしろいよ!って人に薦められる小説だったので、読書感想文を書きます!
1933年刊行。英国の小説家、ジェイムズ・ヒルトンによる長編小説
『失われた地平線』は1933年に刊行された。……90年以上前? 戦前(第二次世界大戦の前)の作品ってこと? 同じ年に刊行された小説作品には、江戸川乱歩『悪霊』(未完)、エーリッヒ・ケストナー『飛ぶ教室』、アガサ・クリスティ『死の猟犬』など。このへんを挙げれば、なんとなくどれくらい前の本だかわかるかな? あと、川端康成がガンガン作品出してたころかな?
そんな時代にジェイムズ・ヒルトンが上梓したのが『失われた地平線』。SF、ファンタジー要素を織り込んだ冒険小説だ。冒険小説って、ほかにどんなジャンルの作品があるだろう。ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』、ロバート・ルイス・スティーヴンソン『宝島』、マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』。うん、検索するとこんな感じだな。
だけど、そういう未開の地を開拓するような冒険小説のイメージとはちがう、野蛮さと少し距離を置いたインテリジェンスが漂うのが『失われた地平線』の世界観。主要な人物も、英国ぽいちょっとニヒルなエリートだったりする。
形式としては、プロローグとエピローグのなかでは、名前のない「私」が物語をナビゲートする一人称小説であり、本編はコンウェイという人物が主人公の三人称の作中作小説となり、中断されることなくプロローグとエピローグのあいだで展開されるため、読者がより物語に没入しやすいつくりではないかと思う。この作中作小説を書いたのは、コンウェイにシャングリ・ラの話を直接に聞いたという作家のラザフォードという男。「私」は、ラザフォードがコンウェイから聞いた話を文字に起こした原稿を渡され、それを読む。この視点を共有しているのが読者である。まぁ、めずらしい形式じゃないけど、ファンタジックな感じが高まるよね。
誰かが人から聞いた話を文字に起こして、それを読むという構図が、元の体験との距離をもたらして、フィクションにノンフィクション感を与えてるっていうか。フィクションのなかで語られるノンフィクション、しかもそのノンフィクションが俄かに信じがたいような幻想的な内容っていうのが、また深みを与えているんじゃないでしょうか。二重構造の手堅い意味のある使い方というか、好感が持てるんだよね。
「シャングリ・ラ」がある(とされた)チベットってどんな所?
コンウェイが語り、ラザフォードが書き起こした物語の舞台である「シャングリ・ラ」は、架空の場所であり、設定上はチベットの奥地にあるとされている。
チベットってどんなところなんだろう。もちろん地図上の位置とか地理的な特徴はイメージできるけど、そもそも国と言えるのかどうか確信を持って説明できない曖昧な認識しか自分にはないことに気がついた。なので、ちゃんと説明できるよう調べてみる。
チベットは中国南西部にある自治区である。この「自治区」ってのは、「中国で、少数民族の自治を保障するために設けられた行政区。内モンゴル自治区・広西チワン族自治区・新疆(しんきょう)ウイグル自治区・チベット自治区・寧夏(ねいか)回族自治区の5自治区がある」ってことらしい(出典:デジタル大辞泉)。もともとは中国とは別の国家であり、いろいろあって(歴史が深すぎて説明できん)、18世紀に清(中国本土とモンゴル高原を支配した最後の統一王朝)の宗主権下に置かれて、第二次大戦まで中国の保護国で、また、英国の支配を受けた。1951年中国解放軍が入り、1965年自治区が成立。比較的最近の経緯をなぞるとこんなところだ。
チベットの首都はラサ。住民の多くはチベット族という中国の少数民族である。
ダライ・ラマって知ってるかな? 名前を聞いたことないって人はいないと思うけど、では何者かって説明がちゃんとできる人は多くないと思う。Wikipediaによると「チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する化身ラマの名跡。チベットとチベット人民の象徴たる地位にある。」とのこと。
ラマってなんだよって思うよな。このラマってのも『失われた地平線』のなかで出てくるから、意味を知っておくとイメージがだいぶ膨らむぞ。ラマってのは、チベット仏教における僧侶の敬称の1つ。「上師」と訳されることもあるらしい。これもWilipedia参照な。チベット仏教ってのも、また神秘的な宗教だよな。よく知らないから神秘的って言葉でごまかしてるだけってところもあるけど、これも物語の背景になっている。
で、チベットといえばチベット高原なんだけど、この高原はチベットの領域とほぼ等しいらしいんだよね。知ってた?
高原っていうくらいだから高度は高くて、平均で4500メートルなんだとか。日本の平均高度は約378メートルらしいから、そう考えるとチベット高原に住む人や動物は、すさまじく高いところで生活しているわけだ。もうすでに神秘的な感じ出してるよな。
余談だけど、神秘って英語ではmysteryなんだって。ミステリー。で、神秘的ってのはmysticalっていうんだと。え? mysteriousじゃないの?って俺も思ったけど、mysticalってのは「超自然的な要素や神秘主義に関連するもの」に使われるらしくて、mysteriousってのは「解明されていない謎や秘密があると感じさせるもの」に使われるんだって。だから、『失われた地平線』は、ミステリアスでありミスティカルでもある作品、って言えるかもしれませんね。
はい。そんで、チベット高原を囲むのが山脈。地球上でもっとも標高が高い地域というヒマラヤ山脈をはじめ、カラコルム山脈、崑崙山脈、阿爾金山脈、祁連山脈、横断山脈(邛崍山脈)と、チベットの周りにあるのはいずれも高峰。このへんのイメージも、物語を読むうえで理解しとくと楽しいはず。
『失われた地平線』はどんな話?
さて、小説が書かれた時代背景、あらすじと物語のフォーマット、舞台のイメージなどについて話をしてきたけど、具体的な内容については、さっぱり触れられていなかった。書いていきますね。
主人公は「私」。作中作の主人公は、ヒュウ・コンウェイ。イギリス領事を務めるコンウェイは、搭乗していた飛行機をジャックされてシャングリ・ラまで連れてこられる。同乗していたのはコンウェイの同僚でイギリスの副領事であるチャールズ・マリンソン大尉、東方伝道会のミス・ロバータ・ブリンクロウ、アメリカ人のヘンリー・D・バーナードの3名。作中では“四人の白人”と書かれている。まぁひとつの共通項として、物語の輪郭をつかむうえで役立つ情報だろう。
ん? ひとりだけ雑な肩書きのやつがいるって? アメリカ人? そう、こいつ、バーナードは初っ端からあやしい。さっそくミステリアスな雰囲気が醸されているわけだ。ネタバレになるから、バーナードが何者なのかは書かない。
ちなみに領事ってのは「外国にあって自国の通商の促進や自国民の保護・取締りにあたる」という仕事なんだとさ。まぁ、エリートの仕事だろうね。ブリンクロウの所属である東方伝道会ってのは、伝道会が「主としてプロテスタント教会で、宣教師を海外に派遣し伝道することを目的として設立された組織」ってことらしいから、東方においてそれを行う宣教師ってところかな? ちなみにコンウェイいわく「よくよく見れば、若くもなし、美貌というにはほど遠い」とのこと。ひどいな。
コンウェイは当時37歳。この年齢は、彼の行動の動機を読み解くうえで役に立つ情報だ。マリンソンは20歳代半ばの美青年。コンウェイがここで「美青年」と書いていることは、最後まで覚えておくといい。俺は忘れていて、最後まで読んだ後にもう一回読み返して、マリンソンってビジュ良いんだったわって思い出した。
そもそも、なぜ彼らはシャングリ・ラに連れてこられたのかが大きな謎である。シャングリ・ラがどういう場所なのかは、コンウェイの理解とともにするすると説明されていく。そう、物語の展開はシャングリ・ラがどういう場所なのかだんだんとわかっていくということを軸に進行していく。しかし意外と教えてくれないことがいくつかあって、教えてくれないから知りたくなる、ってのも興味をそそりページをめくる機能として働いている。
で、物語のテーマは、長寿、若さ、学び、文明、生き方、といったところ。哲学的~みたいな言葉で片付けられるありふれた類のものかもしれないけど、考えさせられますよ。シャングリ・ラっていう環境が装置として働いていて、この手のテーマをより深淵なものにしている。コンウェイと、シャングリ・ラ側のホストである張(チャン)や現地の最高位の僧である大ラマとの対話は高尚な議論のように読めて、読者にも深い呼吸をしながら瞑想しているような感覚を覚えさせる。
結末で考えさせられる“俗物的な価値観”
しかし、思索がディープになっていくなか、そんなムードを一掃するかのように、コンウェイが語る物語は急展開を迎え終幕する。拍子抜けとさえ言える呆気なさもある。そこでは、シャングリ・ラの住人たちが研鑽してきた教養や学問などが吹き飛ぶような、非凡な人間の感情がありありと描かれる。未知への期待、嫉妬、愛、そして物語としてありきたりな結末。
俺は、シャングリ・ラの住人のように高度な文明に隔離されストイックに研鑽を積み教養を深めていく生き方と、人間の利害や欲望や感情のままに俗世であわただしく暮らすのと、どちらが“俗物的”なのか、考えさせられた。書いちゃうけど、シャングリ・ラにとどまるか戻るかっていう場面が、ひとつクライマックスなんだよね。コンウェイは葛藤するわけで、秤にかけられているものが何かっていうのを読者が埋められる余白とともに提示している、俺はそんな気がした。
俺の場合は“俗物的な価値観”が、秤で量られているものだと捉えた。俗物的なものに囚われているから、それから離れるために俗世と隔絶されたシャングリ・ラで賢者として生きることを選ぶのか。コンウェイは、そこがギリギリのところでわからなくなったんじゃないかなー。彼の意志を揺るがしたのは、結局、愛とか欲とか“俗物的”なものだったわけで、自らの動揺さえも瞬時に分析できるほど賢いコンウェイだからこそ、自分の気持ちに衝撃を受けてしまったんじゃないかな。相対化されきった価値観に。
『失われた地平線』は秘境系小説が好きな人におすすめ!
ここで、この小説の構造を見直してみる。『失われた地平線』は「私」が、コンウェイの話をラザフォードが聞き書きした作中作小説を読んでいる、という体験をする本である。コンウェイは、ちょっとかわいそうなことになっちゃうんだけど、普通の人なら惨めに感じて辛い状況とそれに伴う自分の感情さえも、客観視してラザフォードに語ったんだと思えば、読んでいる側としてはまだ救いを感じるというか、コンウェイはまだ大丈夫なんだな、と安心させられるというか、まぁ余計なお世話なんだけど、そういうことも思う。
で、本編である作中作小説のあとのエピローグがこれまたミステリアスでね、秘境ものの醍醐味みたいなのをしっかり味わわせてくれるんだよ。
うん、そうだ、『失われた地平線』は、秘境系のミステリアスな感じを味わいたい人におすすめの作品! 読み応えも抜群だし、シャングリ・ラを生み出した歴史的作品として読む価値はあるし、物語の面白さや人間の内面について深く考えるうえでも、傑作といえると思う! そういうことにして、この書評を終わりにしよう。だらだらと書いてしまい、失礼いたしました。