『夜と霧』という本、書店で見かけたことのある人も多いんじゃないだろうか。おそらく、みなさんが目にしているのは新版のほう。旧版の『夜と霧』はサブタイトルに「ドイツ強制収容所の体験記録」がつく。そう、この本はホロコーストの現場を記録した本である。書いたのは、自身も強制収容所に収容され、そして生還した精神科医、ヴィクトール・E・フランクル。
1956年刊行のベストセラー
紹介文の一部では
1956年8月の初版刊行と同時にベストセラーになり、約40年を経たいまもなお、 つねに多くの新しい読者をえている、ホロコーストの記録として必読の書
と書かれている。
そう、この本はベストセラー。そして今日にいたるまで売れ続けている。では、なぜ支持されているのか。俺が読んで感じたのは――不謹慎を承知で書くが――ぜんぜんかなしくない、悲愴感が漂っていないということ。唯一無二の読書体験、記録として貴重であるのはもちろん、本として、読み物として異次元の一冊である、ということをはじめにお伝えしておく。
ちなみに帯はこんな感じ。
ありきたりなホロコーストの地獄絵図は描かれない
ホロコーストと聞いて、身震いするほど凄惨なシーンを思い浮かべる人がほとんどだろう。ガス室による殺戮、巨大な穴に夥しく積まれた死体の山……『夜と霧』では、そのような場面の報告がないわけではないが、感傷的にそれらについて語ることはない。
冒頭の一説を引く。
これは事実の報告ではない。体験記だ。ここに語られるのは、何百万人が何百万通りに味わった経験、生身(なまみ)の体験者の立場にたって「内側から見た」強制収容所である。だから、壮大な地獄絵図は描かれない。
著者は「おびただしい小さな苦しみ」を『夜の霧』のなかで描く。「ごくふつうの被収容者の魂」に、強制収容所における“日常”がどのように映ったのかを、問おうというのだ。
引用とか鍵括弧とか、ダブルコーテーションとかで読みづらくて申し訳ない。でも、読んでみるとわかる。原文と訳文の完成度の高さから、線を引きたくなる箇所がたくさんある……。
ちなみに、舞台?はアウシュヴィッツ収容所ではなく、その支所。だったら、生還する望みは比較的あったのだろうと思うだろうけど、実は、支所に収容されたもののほうが “絶滅”の筆頭だった、みたいなことが書かれている。このへんも、先入観とはちがってくるよな。そんな話、あまり聞いたことないよな。
俺たちは、メディアが報じる凄惨を極める“わかりやすい”ホロコーストしか知らないのかもしれない。もちろん、恐怖として記憶させることで、二度と繰り返すべきでない歴史として刻むべき出来事であるのも事実。ただ、世界最悪の出来事にもあらゆる側面がある。『夜と霧』は、それを冷静な視点で、ときにはユーモラスに教えてくれる。
語られるのは、“「知られざる」収容者の受難”と、著者のヴィクトール・E・フランクルは綴っている。
「カポー」とは? 収容者を収容者が監督する
強制収容所の“日常”を描くうえで、触れないわけにはいかないのが「カポー」の存在。カポーとは、収容されたユダヤ人のなかから、適性のある――人を殴ることに躊躇のないサディストのような素質のある――者として選出され、収容者を監督する側に回るもののことだ。
カポーとの関係性が、著者の収容所生活の環境に影響したこともあったらしい。たとえば、移動中に心理学者としてあるカポーの悩みを聞いてやったことで、そのカポーからの恩義を獲得し、優遇されたなんて場面も描かれている。著者の生還はカポーに取り入ることができたためとも考えられるだろう。
『夜と霧』で語られる展開のなかで、カポーの存在は欠かせないものだ。終盤の章「収容所監視者の心理」は、本書のひとつのハイライトだろう。この本が悲痛なルポルタージュではなく、精神分析を題材としていることを示している。
この本を象徴するようなスピノザの言葉
『夜と霧』のなかで、俺の印象に残ったのは、著者がスピノザ『エチカ』から引いた以下の一文。
苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる
『エチカ』第五部「知性の能力あるいは人間の自由について」定理三
「苦悩であることをやめ」たのかはわからないが、著者は「苦悩という情動」をまさに「明晰判明に表象」している。抑制的な筆致というわけではなく、冷静に淡々と書かれている。だからこそ、感動を伴う場面のリアリティが冴えている。
そう、感動ができないまったくドライな本というわけではないのだ。衝撃的な出来事も、明晰判明に描写する。だからこそ、そのほかのメディアが大仰に伝えるものとは違う、芯のある感動を与えている、ように俺は感じた。
『夜と霧』は読者を選ばない。あらゆる人におすすめ
『夜と霧』は、難しい本ではない。ページ数も少ないし、新版なら文字も大きくゆったりしていて非常に読みやすい。なんなら、すぐに読めると言ってしまえる。
だから内容が薄い、なんてことはない。この文量で既知の事実を並べ立てられたら、そりゃ内容薄いよって話になるんだけど、誰もが知る負の歴史であるホロコーストをほかにはない視点で書いており価値ある情報を届けているから、不思議な読み応えがある。
著者の構成力・要約力なのか、何度も版を重ねられて研ぎ澄まされた翻訳文だからなのか、とにかく質が高い文章である。
売れているだけのことはあるって言っちゃっていいのか、多くの人に豊かな読書体験を与えてくれる本であることは違いない。少なくとも、俺は読んでよかった。ホロコーストの恐怖を冷静に捉えることができた気がする。
冷静に捉えられたからと言って、恐怖に打ち勝つことができるようになるとは違うんだけど……。ハードカバーで税抜き1500円とかなので、高くないよね?という観点でも損はないと思います。おすすめ……です!